【京焼の名工】青木木米|ヒト

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生い立ち

 青木木米は江戸時代後期に活躍した京焼の名工。京都に生まれ、生家は祇園で木屋という茶屋を営み、幼名を八十八といったため木米と号しました。
 

 木米は実家の家業を嫌い15歳で家出をし、放蕩三昧の暮らしをしていましたが、儒学者である高芙蓉の家に出入りするようになり、そこで高い教養を身に着けたといいます。そして30歳の時、豪商であり文化人であった木村蒹葭堂との知遇を得ることができ、その書庫で運命の書物との出会いをします。清時代の朱笠亭が記した「陶説」を読破し、それに深い感銘を受け、30歳にして陶工への道へと進みました。

 

陶工への道

 陶工としてはあまりにも遅いスタートであったが、すぐにその才能は開花しました。
はじめに教えを請うたのは、京焼初の磁器焼成に成功し、建仁寺に住んでいた奥田頴川でした。修行するやすぐに師を凌駕し、粟田口に自分の窯を開いて、独り立ちしました。その名声はわずか数年で高まり、39歳で粟田口御用窯を命じられました。その翌年には加賀前田藩の招聘を受けて金沢へ行き、卯辰山に藩営の春日山窯を開きます。そこで九谷焼の再興に尽力し、この経験が木米をさらに飛躍させることとなりました。

 

教養人・木米

 木米は本業の傍ら、詩歌を吟じ、古書に通じ、頼山陽、田能村竹田とも親交がありました。頼山陽に「翁は古を嗜むの士にして、陶工に非ざるなり」と言わしめるほどの教養人でもありました。そのため、木米の作にはその人となりが現れ、作風も変幻自在でした。その秀でた色彩感覚、卓越した造形感覚を駆使した色絵や青磁、染付などの煎茶器を数多く残しており、その中でも急須が特に優れているといいます。また晩年は、奇抜な構図や大胆なタッチ、特に藍と代赭を用いた山水画を描きました。

 

逸話

木米は作陶にあたり、窯の温度を炎が発する微妙な音の違いで聞き分けたため、常に耳は赤く腫れ上がり、晩年が聴覚を失ってしまいました。それ以来“聾米”と号したが、作陶意欲は終生衰えることはありませんでした。死に際しては、自らの亡骸を土に混ぜ、三日三晩焼いて、京都の北山に埋めるよう遺言を残したと言います。

 

 

京焼の名工・青木木米の生涯 (新潮選書)

京焼の名工・青木木米の生涯 (新潮選書)

 

 

 

木米 (日本陶磁大系)

木米 (日本陶磁大系)