【噀酒仙人】欒巴|ヒト

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 中国では道教の思想に由来する個性豊かな仙人たちが数多く語り継がれています。
西晋東晋時代の葛洪が記したとされる「神仙伝」からひとり面白いエピソードを持つ「欒巴」という仙人を紹介したいと思います。

 

宦官としての経歴

 

 欒巴は中国後漢時代、三国志の時代の少し前の時代に活躍した宦官です。若い頃より道学を好んで、俗事にあまり携わりませんでしたが、順帝の時に宦官として後宮に仕えました。宦官としては実直に仕事をこなし、官吏や民衆のために学校を建てるなどの業績を残しており、官吏として着実に出世していきました。しかし、朝廷での権力争いに巻き込まれ、左遷や投獄を経験し、最後は霊帝の怒りを買い、自殺を賜わうこととなってしまいました。

 

仙人エピソード

 

 以上が歴史上の欒巴についてです。彼が道学を好んだためか、死後に色々話が盛られ、虎に姿を変える話や妖怪退治の話など超人的な存在として語られていきました。その中でひとつ面白いエピソードを紹介します。

 

 欒巴が尚書郎(尚書は朝廷の文書・詔勅を取り扱ったところ)になった頃、正月元旦の大宴会に、遅刻して現れ、しかも酔っ払っていました。百官に酒が下賜されると、今度はそれを飲まずに、口に含んで西南の方角へと吹き出しました。係官が欒巴の不敬を上奏し、皇帝が欒巴に理由を尋ねました。すると欒巴は「私の故郷である成都の市中に火事があったため、あのように酒を含んで火を消したのです。あえて不敬を働いたのではありません。何卒お調べいただき、もし偽りならば罪に問うてください。」と言いました。そこで成都に早馬を立てて報告させました。報告には「正月元旦に火事がありましたが、程なくして東北(都の方角)より大雨が降り、火はやがて消えました。また、その雨はことごとく酒の匂いがしました。」とあった。

 

列仙伝・神仙伝 (平凡社ライブラリー)

列仙伝・神仙伝 (平凡社ライブラリー)

 

 

 

 

【京焼の名工】青木木米|ヒト

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生い立ち

 青木木米は江戸時代後期に活躍した京焼の名工。京都に生まれ、生家は祇園で木屋という茶屋を営み、幼名を八十八といったため木米と号しました。
 

 木米は実家の家業を嫌い15歳で家出をし、放蕩三昧の暮らしをしていましたが、儒学者である高芙蓉の家に出入りするようになり、そこで高い教養を身に着けたといいます。そして30歳の時、豪商であり文化人であった木村蒹葭堂との知遇を得ることができ、その書庫で運命の書物との出会いをします。清時代の朱笠亭が記した「陶説」を読破し、それに深い感銘を受け、30歳にして陶工への道へと進みました。

 

陶工への道

 陶工としてはあまりにも遅いスタートであったが、すぐにその才能は開花しました。
はじめに教えを請うたのは、京焼初の磁器焼成に成功し、建仁寺に住んでいた奥田頴川でした。修行するやすぐに師を凌駕し、粟田口に自分の窯を開いて、独り立ちしました。その名声はわずか数年で高まり、39歳で粟田口御用窯を命じられました。その翌年には加賀前田藩の招聘を受けて金沢へ行き、卯辰山に藩営の春日山窯を開きます。そこで九谷焼の再興に尽力し、この経験が木米をさらに飛躍させることとなりました。

 

教養人・木米

 木米は本業の傍ら、詩歌を吟じ、古書に通じ、頼山陽、田能村竹田とも親交がありました。頼山陽に「翁は古を嗜むの士にして、陶工に非ざるなり」と言わしめるほどの教養人でもありました。そのため、木米の作にはその人となりが現れ、作風も変幻自在でした。その秀でた色彩感覚、卓越した造形感覚を駆使した色絵や青磁、染付などの煎茶器を数多く残しており、その中でも急須が特に優れているといいます。また晩年は、奇抜な構図や大胆なタッチ、特に藍と代赭を用いた山水画を描きました。

 

逸話

木米は作陶にあたり、窯の温度を炎が発する微妙な音の違いで聞き分けたため、常に耳は赤く腫れ上がり、晩年が聴覚を失ってしまいました。それ以来“聾米”と号したが、作陶意欲は終生衰えることはありませんでした。死に際しては、自らの亡骸を土に混ぜ、三日三晩焼いて、京都の北山に埋めるよう遺言を残したと言います。

 

 

京焼の名工・青木木米の生涯 (新潮選書)

京焼の名工・青木木米の生涯 (新潮選書)

 

 

 

木米 (日本陶磁大系)

木米 (日本陶磁大系)

 

【ケルベロスの3倍!】開明獣|ヒト

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古代中国で書かれた山海経。奇書の中の奇書でありネタの宝庫。奇妙奇天烈な生物のオンパレード。古代の人たちの想像力の豊かさをビンビンに感じることができます。その中から「開明獣」というちょっと変わった伝説の動物をご紹介。

 

開明

 

山海経によると、

崑崙の南淵の開明獣は体は虎、9つの人頭を持ち、東に向いて立っている。崑崙の天には9つの門があると言われ、門を守る神獣とされています。

 

山海経の海内西経には、

海内は崑崙あり、天帝の都を指す。広さは800里四方、大樹のような麦が生ず、9つの井戸、9つの門を有し、開明獣がこれを守る神々の集う地とされています。

 

また「荘子」に登場する「肩吾(けんご)」という神獣も門を守るものとされ、この開明獣と同一視されています。

 

彭の国の伝説

 

史書の「国語・鄭語」によると、

彭は殷に討たれて滅んだ。しかしその後、彭の末裔は南方に国を建てたという。そして、周の武王に従い、殷を討った。しかし結局、楚に滅ぼされてしまう。彭は楚が最初に得た国であった。

 

開明獣はもともと彭の災いの獣でしたが、蜀の始祖鱉霊(べつれい)に仕え、建国に寄与した。鱉霊はその功を讃えて、自らを開明帝と名乗りました。

一方で蜀の名君開明帝は死後開明獣になったとも言われています。

 

余話

 

開明獣は現代のゲームやマンガにも登場しています。例えば「モンスト」。台湾版の限定キャラとして追加されています。また、諸星大二郎のマンガ「孔子暗黒伝」にもちょっとだけ登場します。

しかし、両者とも開明獣の頭は1つ。絵にしてしまうとやはりバランスが悪いんでしょうね。さすがにケルベロスの3倍は盛り過ぎです。

 


 

中国の神獣・悪鬼たち―山海経の世界 (東方選書)
 

 

 

孔子暗黒伝 (集英社文庫―コミック版)

孔子暗黒伝 (集英社文庫―コミック版)

 

 

 

【びっくら香】碧螺春|モノ

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中国では到るところでお茶のある風景に出会うことができます。茶館では多くの人がお茶を楽しみ、庶民の社交の場となっていたり、街中で太極茶道が行われていたりと日本と少し違ったかたちでお茶がよく親しまれています。今回は数ある中国茶の中でちょっとおもしろい逸話のある“碧螺春”というお茶をご紹介します。

碧螺春

碧螺春は中国十二銘茶の一つに数えられ、1000年の歴史を持つ伝統的な緑茶です。江蘇省の太湖の辺り、洞庭山一帯で栽培されています。そのため、別名を洞庭碧螺春とも呼ばれます。

茶葉は白いふわふわとした産毛に覆われ、カタツムリのように渦を巻いており、とてもいい香りがするそうです。中国内外で人気があり、太湖の洞庭山で栽培されている量を遥かに越える量が流通しているそうです。日本の魚沼産コシヒカリのようですね。安物には気をつけましょう。

逸話

清王朝の時代、当時の皇帝であった康熙帝が南巡した際、独特の香りのするお茶と出会いました。このお茶の名前を現地の人々に尋ねると「びっくら香」と答えました。康熙帝はそれを知るや、その名では聞こえが悪いと「碧螺春」に名を改めさせました。このお茶は皇帝に献上されるようになり、宮廷で飲まれるようになりました。しかし、その次の皇帝であった雍正帝の時代に、民のこと思って毎年の進貢を中止させたといいます。

 

この逸話以外にも様々な名前の由来があるそうですが、この康熙帝の逸話の知名度は中国では高く、碧螺春の付加価値を高めてるのかもしれません。

 

 


 

碧螺春 50g

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カラー新書 中国茶図鑑 (文春新書)

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【殺人鬼か自由の代弁者か】ナット・ターナー|ヒト

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忘れられた闘士

 

 アメリカで黒人の奴隷解放や人種差別のために闘った人達はたくさんいます。公民権運動の時代に活躍したキング牧師マルコムXローザ・パークス奴隷制時代に活躍したジョン・ブラウンフレデリック・ダグラス、ハリエット・タブマン。このナット・ターナーもその一人です。しかし、アメリカ国内でもあまり有名な存在ではなく、公の場で語られることまずないそうです。その理由は彼の起こした事件を伝えるものがほとんどないこと。また、その事件があまりにも凄惨であったため、その地域の人達によって封印されてしまった歴史だったからです。

 


 生い立ち

 

 まずは彼の生涯を辿ってみたいと思います。名前はナット・ターナーターナーは奴隷所有者の名)。1800年アメリカ・ヴァージニア州南東部のサウサンプトンで黒人奴隷の子として生まれました。彼は他の奴隷と違い、特別な存在でした。当時の奴隷の多くは自分の名も書けませんでしたが、彼はとても賢く、読み書きもでき、聖書を読むことができました。また、額と胸に特徴的なアザがあったため、両親は神秘的な存在として信じていましたし、彼自身も自分が特別な存在であると自覚があったようです。その後、彼は聖書に傾倒し、高い教養を持っていたため、一部の白人からも尊敬される存在になっていきました。

 


 説教師として

 

 奴隷として綿花の収穫を行う傍らで教会の説教師としても活動していました。奴隷所有者の求めに応じて奴隷が反抗せず従順であることを説教させました。この背景には、アメリカでは奴隷制度開始から長い年月が経っていたため奴隷所有者に絶対的な支配権が与えられていることは自明のことでしたが、1791年にハイチで奴隷による反乱が起き、たくさんの白人が殺害されたことへの不安があったのかもしれません。説教師の経験から多くの奴隷の惨状を目の当たりにしたことで、聖書に書かれていることとの矛盾を感じて、葛藤したことでしょう。

 


 反乱前夜

 


行け アマレクを討ち その一切を滅ぼし尽くせ 男も女も子供も牛も羊も皆 容赦なく殺せ

                        旧約聖書 サムエル記


 彼は聖書に登場するダビデやギデオン、ヨシュア、サムソンのように戦うことを決意しました。1831年の2月に日蝕があり、これを神の啓示と受け止め、具体的な準備に取り掛かりました。キャビン池と呼ばれる池の畔で同志の奴隷たちと決起を誓い、8月13日にもう一度日蝕が起きたことを最後の合図に、その1週間後の8月21日に反乱を決行。50人余の奴隷たちは抑圧的な奴隷制度からの自由を求めて立ち上がったのです。

 


 反乱決行

 

 反乱の最初の犠牲者は当時のナットの所有者でした。就寝中を襲い、一家5人を殺害します。次々と農場を襲撃し、ある家では大人1人と子供10人が犠牲となりました。しかし、反乱は即座に鎮圧されてしまいました。約48時間の反乱で60人以上の奴隷所有者とその家族が犠牲となりました。ナットは森に逃げ、2ヶ月以上姿を隠しましたが、民兵に捕らえられ、ヴァージニア州エルサレムの監獄に収監されました。処刑数日前に弁護士のトーマス・グレイが面会をして、犯行の動機だけでなく、その人生についても聞き取りをしたことで記録として残すことができました。

 


その後

 

 11月11日、ナットは木に吊るされ絞首刑に処されました。反乱に加わったとされる他の奴隷たちも全員処刑されました。白人たちの報復として無実の数百人の奴隷や自由黒人も殺されました。また、彼の意志の継承を阻むために、ナットの遺体は皮を剥ぎ、解体され、皮は記念品に、脂は潤滑油に加工されたといいます。当然、墓や石碑などはなく現在もどこに埋葬されたかわかりません。このナット・ターナーの反乱は全国を震撼させたことは言うまでもありません。規模は小さかったものの、この30年後に起こるアメリカ最大の内戦・南北戦争の一因にもなったと言われます。現在でもナット・ターナーの評価を巡ってはただの殺人鬼と見なす人もいれば、自由を求めるものの代弁者として讃えられるべきとする人もいます。どちらにせよ忘れてはいけない歴史の一つに変わりありません。

 


逸話

 

 ナット・ターナーはよく幻を見たそうです。その具体的な記述も残っています。白い精霊と黒い精霊が闘い、太陽は光を失っている。雷鳴が鳴り響き、血が滝のように流れる。トウモロコシから流れる血は天の涙のようであったと語っています。

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はじめに

このブログでは、あらゆる歴史に関するヒト・モノ・コトについて書いていきます。ひとつの用語・語句について気楽に読めるぐらいの文量で書いていきます。Wikipediaや百科事典でいいやと言われないように、冗長過ぎず、また無味乾燥にならないことを心掛けていきます。扱うテーマは戦国時代や幕末、三国志といった限定したものではなく、古今東西、硬軟、聖俗織り交ぜていきます。史実だけに必ずしもこだわらず、人から人へと伝え語られた伝説や眉唾もの逸話も大切にしていきます。歴史があまり好きでない方にも読んでもらい、少しでも歴史って面白いなと感じてもらえたら幸いです。